2017年11月12日日曜日

思おうとする心と思うまいとする心の葛藤が煩悶である


 物事を言葉で詮索し、解釈しようと思う時には、どうしてもその言葉の意味、すなわち「煩悶とは何ぞ」とかいう事を、まず、つきつめてかからなければなりません。

 

 「金がなくなった」「働かなくちゃならん」そんな事は煩悶とはいわない。煩悶とは、心の葛藤です。欲望と恐怖との拮抗闘争です。

 「金がなくなった。残念な事をした」とか「働かなくちゃならん。苦しい事だ」とかは、そのままであれば葛藤ではない。

 「あの時に、あんな事をしなかったらよかった。もしああしてあったら、こんな苦しい目にあわなかったろうに」とかいうのは、どうにもならぬ、過ぎ去った事をいたずらにかこつだけで、こんな事を繰り言という。

 ただこんな事をくり返し・思い出し・口走るたびに、これに関連した悔しい残念な事柄ばかりを思い出して、苦しい思いが、募るばかりである。ここまでは、まだ闘争ではなく、葛藤ではない。

 

 この繰り言は果てしがなくて、心が滞り煩累を感ずるから、ついにはこれを思い捨てて、あきらめるようにと、その心を圧迫・否定し、あるいは逃避し気を紛らそうとする。すなわち一方には思おうとする心と、他方には思うまいとする心との葛藤が起こる。これが煩悶である。強迫観念の原理も全くこれと同様である。 

 我々は、苦しい事を苦しいと思い、残念な事を残念と思うのは、自然人情の事実であるから、腹がへった時に、食べたいと思うと同様に、これをどうする事もできない。これをそうでなくしようとするから、全く不可能の事で、あせればあせるほど、いたずらに奔命に疲れるばかりである。これが煩悶であり・強迫観念であるのである。




2017年8月9日水曜日

忘却は連想の無関係から起こる

 病院を出ると、その話そうと考えた事を、どう考えても思い出す事が出来ない。家に帰って、その事を思い付いたと同じ境遇に置かれた時に、また同じ事をフト思い出した。病院へ来るとまた忘れる。この事が続いて2,3回繰り返された。
 さて、この事を思い付いたのは、余が葡萄の手入れをしている時で、1人の神経質患者に手伝ってもらっている所であった。
 2,3日の後に、再び葡萄の手入れで同一の患者がその下を通った刹那に、前に自分で如何に努力して連想の鎖を辿っても、思い出す事の出来なかった事が、再びフト心に閃き出たのである。
 余は忘却の心理について、フロイドの潜在意識の抑圧とかいうような説には、あまり感服しないものである。余の観察する実際の事実は、忘却という事は、現在の境遇即ちその周囲及び精神の状態が、その忘却の条件と余りかけ離れており、縁遠いもので、連想の機転がこれに触れない時に起こるものである。
 即ち例えば催眠中の事、憑依現象の事、夢の事等を醒覚もしくは平常の生活において、努力しても思い出す事の出来ないのはこれと同理である。この事は余が神経質や精神療法の著書中にも書いて置いた事である。
 またある時、余は家内にある膏薬を持ち帰るように頼まれていたが、2、3回もそのままに忘れてしまった。然るに病院からの帰途、ヤマト糊を買って、その容器の事からフト前の頼まれた膏薬の事を思い出した。
 突然の思い付きも度忘れも、皆吾人のその時のその刺激と連想との廻り合わせから起こるものである。
 その廻り合わせは、種々の事情から起こるものであるが、神経病の場合においては、もとよりフロイドのように説明し得べき場合は時々ある。
 然れども、ただその説明法が余り人工的であるという点においては、フロイドの忘却の心理説に余り感服しないものである。

2017年8月8日火曜日

あるがまま(あるまま)

「苦痛を苦痛として受け入れるようにしよう」という事は、その「受け入れよう」と心がける事が「思想の矛盾」となって、その受け入れる事が益々苦しくなる。

普通の人は、平常「受け入れる」とか入れないとか、そんな事を考えているのではない。

ただ苦痛は苦しみ、面白い事は喜んで居るだけである。夏の暑苦しい衣物でも、「苦痛を受け入れよう」と考えて着て居るのではない。

ただ何とも考えないで、それきりであるから、別に耐え難い苦痛を感ずるのではないという意味であります。

こんなことは総て言葉尻の詮議立をせずに、常に自分の心持をよく観察して考えなければなりません。

もし貴方が「受け入れなければならぬ」というはからいの心がある時には、常に必ず苦しくてたまらぬものであり、ズイブン窮屈な洋服でも、そんなはからいの考えがなければ、少しも苦痛に気のつかぬものです。

 森田正馬




2017年8月4日金曜日

日々是好日

喜びにも苦しみにも、可も猶あきたらず、不可も必ず之を切開かんとする。
時々刻々の我心のひらめきに、「汝自身を知」らずに居られないだろう。
是好日である。




2017年4月17日月曜日

対人恐怖

患者

『対人恐怖の根治法』を読んで、理屈は解りますが、実行ができません。


 先生

貴方のいう事は、結局、本を読んでも対人恐怖が治らないという事でしょう。

それは夏は暑いという理屈は解ったが、どうしても、涼しいと思う事は出来ないというと同様です。

暑いのは、どうしたって暑い。人前では恥かしい、きまりが悪い、それは我々の心身の事実であるから、どうする事もできない。どう思えばよいかという事はない。

耐えても耐えなくとも、思っても思わなくても、暑い事に相違はない。例えば、急に発熱して、40度になったとする。苦しい。どうしたって、苦しい事に相違はない。

これを、どう考えればよいかとか、理屈をいえばいうほど、益々苦しくなるばかりである。


 患者

あきらめるんですね。


 先生

あきらめる事は出来ない。

あきらめる事が出来れば、苦痛でもなければ、欲望でもない。

我々は偉い人になりたい、金持ちになりたいと思って、あらん限り勉強する。各々分相当の標準を立てて見きりをつける。

これは理知的の判断であって、欲を捨てるのではない。その証拠には、一万円の財産が出来れば、二万円にしたくなり、「欲の袋に底はない」という風に、財産が増せば増すほど、欲は強くなるのが、普通の人情である。

 神経質はあきらめる事の出来ない人である。

我々は人生の実際において、あきらめる事が出来ない者であるという事を、明らかに自覚する事が出来れば、ただあらん限りの努力をするより外に道がないという事が解る。










2017年4月15日土曜日

森田正馬の神経質研究

患者 

「永久に不幸が続く」という不安は、どうすればよいのでしょうか。

先生 

抽象的に考えずに、具体的に一つ一つ事実について考えて行けばよい。

不幸とは何の事か。
試験に不合格か。学資金が無くなるか。下駄の緒が切れたか。鉛筆の先が折れたか。

永久とは、それがいつまでも、鉛筆の先が折れ、、下駄が切れて、何時間、立往生するか。子孫代々、下駄が切れるか等、一つ一つ事実について、考えて行けば、必ず行きつまる所へ行くものです。

このような抽象的の事は、昔々その昔とか、上の上のまだその上とか、先の先のまたその先とか、比較・相対を離れて、無限・絶対のはてしの無いものですから、限りない不安がつづく訳になるのであります。

貴方の不快な感じが、金に沁み込んだという事は、我々の活発な想像の結果であるから、夢のようでも、お伽噺のようでも、少しも差支えのない事です。

ただ、糞は臭いと同様に、不快な想像は、どこまでも、いやな不愉快な事であるという事は、我々の心の事実である。

糞を臭くないように、不快の考えを愉快に考えようとするのが、間違いの元であります。

ただ不快は不快である。それだけでよろしい。





思おうとする心と思うまいとする心の葛藤が煩悶である

 物事を言葉で詮索し、解釈しようと思う時には、どうしてもその言葉の意味、すなわち「煩悶とは何ぞ」とかいう事を、まず、つきつめてかからなければなりません。    「金がなくなった」「働かなくちゃならん」そんな事は煩悶とはいわない。煩悶とは、心の葛藤です。欲望と恐怖との拮抗...