2017年8月9日水曜日

忘却は連想の無関係から起こる

 病院を出ると、その話そうと考えた事を、どう考えても思い出す事が出来ない。家に帰って、その事を思い付いたと同じ境遇に置かれた時に、また同じ事をフト思い出した。病院へ来るとまた忘れる。この事が続いて2,3回繰り返された。
 さて、この事を思い付いたのは、余が葡萄の手入れをしている時で、1人の神経質患者に手伝ってもらっている所であった。
 2,3日の後に、再び葡萄の手入れで同一の患者がその下を通った刹那に、前に自分で如何に努力して連想の鎖を辿っても、思い出す事の出来なかった事が、再びフト心に閃き出たのである。
 余は忘却の心理について、フロイドの潜在意識の抑圧とかいうような説には、あまり感服しないものである。余の観察する実際の事実は、忘却という事は、現在の境遇即ちその周囲及び精神の状態が、その忘却の条件と余りかけ離れており、縁遠いもので、連想の機転がこれに触れない時に起こるものである。
 即ち例えば催眠中の事、憑依現象の事、夢の事等を醒覚もしくは平常の生活において、努力しても思い出す事の出来ないのはこれと同理である。この事は余が神経質や精神療法の著書中にも書いて置いた事である。
 またある時、余は家内にある膏薬を持ち帰るように頼まれていたが、2、3回もそのままに忘れてしまった。然るに病院からの帰途、ヤマト糊を買って、その容器の事からフト前の頼まれた膏薬の事を思い出した。
 突然の思い付きも度忘れも、皆吾人のその時のその刺激と連想との廻り合わせから起こるものである。
 その廻り合わせは、種々の事情から起こるものであるが、神経病の場合においては、もとよりフロイドのように説明し得べき場合は時々ある。
 然れども、ただその説明法が余り人工的であるという点においては、フロイドの忘却の心理説に余り感服しないものである。

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